終章[終章]あとの一冊は日記風でいろんな事が書かれてあり、手紙はこのノートの途中で書かれた ものであった。 久江は卒業後も教師に付きまとわれた事が、この上もなく苦痛であった為、その事を森本に訴えたかったようだ。 離婚後、町で知り合いに会い、「森本が今、独りでいるから連絡してやって欲しい。 彼は待っているから、と言われたが森本って誰だか判らなかった。 時々、森本という名前が出てきたが、私には誰の事だか判らなかった」としきりに書かれてあった。 「慰謝料を貰えなかった理由も、良ちゃんとずうっと付き合いがあったから、と言われ、和江は良ちゃんの子供だ、と言われ続けた為だった」 「その和江を梶さんは私の代わりに銭湯へ連れて行ってくれたり、公園へ連れて行ってくれたりした。私はその間、ゆっくり体を休める事ができた」 「でも、良ちゃんに責任は何もない。別れた夫は変質者で、何でも他人のせいにして、特に私を追い詰める事だけが目的の人だった」としてあった。 「今振り返ると私はあなたに大切にされ過ぎました。息が詰るほど幸せだった。あなたの人生を狂わせてしまった私なのに、 それなのにあんなに優しく、何かあったの、と聞いてくれてありがとう」と結ばれてあり、僕達は胸が詰った。 そして「記憶を失くしたあと、梶さんと出会ってその人にも、あなたに負けないくらい大切にして貰った。 私の中で二人はひとりの人なのです」と書かれてあった。 僕が再会したのは記憶を失くす少し前であったが、久江のその頃の記憶は混濁していたのであろう。 「もし、私が死んだら梶さんという人に会って下さい。あなたにそっくりの人です。梶さんは良ちゃんそのものなのです。 純粋で正直で、ひたむきで、何もかも二人そっくりです。でも、その梶さんの人生も私は狂わせてしまいました。 私は二人を別々に愛したのではなく、私の中ではひとりの人を別々の時期に愛したのです」としてあり 「私は同じ人から二度も愛されたのと同じなのです」としてあった。 久江は記憶を取り戻しながらフラッシュバックのシーンのひとつ、ひとつが妄想でない事をひとりで確かめたようだった。 「別れた夫は子供のようで欲しいものは何でも力づくで手に入れようとした。 手に入ると嫌気がさしてボロ雑巾でも捨てるように、私だけでなくいろんなものを次々と捨てた」と書かれてあり、 「結婚式場へ来ていたのなら連れて逃げてくれれば良かったのに。卒業後、ずっと連絡のくれるのを待っていたのに」とも書かれてあった。 そして「梶さんは私の事を気の荒い女だと思っています。でも、私が他の男の人と話していた事が夫の耳に入るとひどい目に遭わされました。 調理師をしていた夫は私に暴力を振るった後は必ず3日くらい仕事をせず、私に付いて回りました」と書かれてあり、 あの平手打ちの謎が解けたのであった。 なぜか僕と親しくしている事に亭主は触れなかったとあり「たぶん、共通の知り合いが多かったからでしょう」としてあった。 このノートの最後には僕宛の手紙が貼り付けてあり、その手紙には僕への詫びと礼がしたためられてあった。 「苦しい中で、とても楽しくて幸せだった。梶さんといると辛い事も苦しい事も全部忘れられた」と書かれてあり、 私の事をあんな風に心配してくれてありがとう。私は世界一幸せな女です。でも、その陰に不幸になったひとがいると思うと 私は耐えられません。もう一度やり直して欲しい。自分の子供の母親を幸せにできないような独善的な生き方を考え直して欲しい」と 訴えていた。僕は途中から涙で読めなくなってしまった。 僕達はここまでにしてとりあえず森本の母親の手料理で飲み明かす事にした。 森本への最後の手紙は死ぬ4~5日前のもので「お母さんの事は恨んでもいないし、何とも思っていない。 あの時、何も言えなくて逃げ出した私が悪いのです。お母さんの事は恨んだり、責めたりしないでやって下さい。 それと、何かの縁で結ばれたひとを幸せにできないなんて、責任放棄です。これからでも遅くはありません。 私と思って目一杯大切にして上げて下さい」と結ばれてあった。 久江は自分の不幸を僕達の妻に重ねて考えたのであろう。 また、「私が生きている事で多くさんの人を不幸にしました」とも書かれてあり、久江は早くから死ぬ覚悟を決めていた事を伺わせた。 美容院を辞めたのも「フラッシュバックによる混乱から体調が悪くなり、仕事の失敗が目立ち始め、他人に迷惑をかけたくないので 辞めた」としてあった。 病院の給食に転職したが、そこでは仕事の内容が覚えられず働く事を断念せざるを得なかった、と切々としたためられてあった。 「マフラーはフラッシュバックの苦しさから逃れる為に良ちゃんの事を思い出しながら織りました。 これは沙織というものです」と添えられてあった。 しかし、全体を通して久江は幸せな心情のまま道案内人もなしに黄泉の国へ先に旅立った事が判った。 久江は僕達といた時だけが幸せだったのだ。 久江はフラッシュバックによる苦しさからどちらかに寄り掛かりたかった。 それで生活の話、特に経済的な相談までできる僕に会いに来たのだが、僕の家を目の前にして気が変り、会わずに命を絶ったらしい。 会えたとしても、その直後に死ぬつもりで薬を携えて来たのであろう。 自分の過去を確かめているうちに久江は僕達の事も他の人の事も何もかも知ってしまったのだろう。 手紙やノートから、やはりあの日森本と出合ったのは久江が引き合わせたとしか考えられない。 久江はこの箱が先に森本の手に渡ると考えていたであろう。 しかし、逆の方法で事が始まり結果的に久江の願っていた通りになったのである。 「これ程の供養はあるまい」と僕と森本は話した。 僕達は、誰が久江に幸せを与える事ができたか知りたかったが、幸せを与える事ができた のは、僕達二人だけであったと思っている。 僕は森本に尋ねた。 「もし、この箱が先に君の手に渡っていたら君は僕に連絡をして会いに来たか」と。 森本は「手紙だけ郵送して、きっと会わなかっただろう」と答えた。 完 |